ニューヨーク、カンヌ、ロンドン、ローマ、ブエノスアイレス、イスタンブール、メキシコ、テヘラン
世界の劇場をめぐり 日本公開へ
次の展開をお待ちください
上映予定
イベント詳細
▶︎11時:整理番号付きチケット発売
▶︎11時20分:開場
▶︎11時30分-13時27分:一回目上映
▶︎13時35分-14時05分:アフタートーク
詩人:吉増剛造 監督:井上春生
〜休憩〜パンフレット購入者にサイン会
▶︎14時20分:開場
▶︎14時30分-16時27分:二回目上映
〜パンフレット購入者にサイン会
当日券のみ/招待券は使用できません
○ 一般 1,800円
○ 学生(大学・専門学校生)高校生 1,600円
○ 中学生以下(7歳以上)シニア(60歳以上)1,500円
○ 障害者手帳をお持ちの方 1,000円
海外受賞最新情報
2023/11/8 国際映画祭『50冠』達成
ベルギーの国際映画祭、最優秀撮影監督賞受賞です。
World Cinema Antwerp Belgium 2022~23
Best Cinematography in a Documentary
2023/5/20 『8 1/2フィルム賞』in カンヌで4冠達成
カンヌ国際映画祭期間中、現地で行われた特別イベント『8 1/2フィルム賞』に40カ国以上/3000以上の作品より選出され、正式ノミネート、4冠になりました。
BEST DOCUMENTARY FEATURE /BEST ART HOUSE FILM /BEST EDITING /BEST PRODUCER
海外上映情報
ワールドプレミア
ニュージャージー/オンライン2022/6/
CA州プレミア
サンフランスシコ/ロキシーシアター2022/7/12-16
ヨーロッパプレミア
ローマ/レッテラリオシアター2022/8/9
イギリスプレミア
ロンドン/チズウィックシネマ2022/8/11
南米プレミア
ブエノスアイレス/メガラマシネ 2022/9/10
ニューヨークNY州プレミア
限定オンライン2022/10/6-20
アジアプレミア
インド/ジョドパーパークシネマ2022/10/12-13
中米プレミア
メキシコ グアナファト/シネアニマル2022/10/20
中近東プレミア
イスタンブール/カドゥキョイシアター2022/10/28
ローマアントワープFFI
特設シアター2022/11/10
これまでの上映
吉増剛造🦋 井上春生🐝
13(火)🦋 🐝 城戸朱理(詩人)
14(水)🦋 🐝 松尾潔(音楽P/作家)16(金)🦋 🐝
18(日)🦋 🐝 今福龍太(文化人類学者)20(火)🦋 🐝 津田直(写真家)
21(水)🐝
22(木)🐝
23(金)🦋 🐝
24(土)🐝
25(日)🦋 🐝 今福龍太(文化人類学者)初公開メイキング映像上映
21(水)10:30の回上映後 🐝
21(水)18:00の回上映後 🐝
22(木)10:30の回上映後 🐝
22(木)18:00の回上映後 🐝
6(金)津田直(写真家)🐝
7(土)津田直(写真家)🐝14(土)津田直(写真家)🐝
15(日)🐝
20(金)🦋「朗読会」🐝
21(土)岡本零(ライター・エディター)🐝
22(日)🦋「朗読会」🐝
23(月)🦋「朗読会」🐝24(火)🐝
25(水)🦋 管啓次郎(詩人/比較文学者)
26(木)🐝27(金) 管啓次郎(詩人/比較文学者)🐝
28(土)若林良(映画批評)菊井崇史(詩人)🐝
29(日)津田直(写真家)🐝
31(火)🦋 🐝いとうせいこう
10(金)🦋 🐝
11(土)🦋 🐝
12(日)津田直 (写真家)🐝
13(月)大田和司 (京芸大舞台技術監督)🐝
14(火)大田和司 🐝
15(水)岡本小百合 「VERTIGO」翻訳家 🐝
16(木)🐝
17(金)🐝
18(土)🐝
19(日)🐝
20(月)〜 23(木)
13:45~15:44 🐝
18:35~20:34 🐝 吉成秀夫(古書店店主)
ジョナス・メカス特集
①『リトアニアへの旅の追憶』
1972年(88分)
監督:ジョナス・メカス
②『ウォールデン』
1969年(180分)
監督:ジョナス・メカス
③『眩暈 VERTIGO』
トークイベント 連日 🐝
10日(土) 🦋 🐝 萩原朔美(前橋文学館館長)
11日(日) 🦋 🐝
※6月13日(火)20日(火)は休館
7日(金) 🐝 松尾潔
8日(土)🐝 🦋
9日(日)🐝 いとうせいこう
10日(月)〜13日(木)
『楽園のこちら側』
『ザ・テーブル』
『幸せな人生からの拾遺集』
ジョナス・メカス監督作連日併映
7月15日(土)
『富士山への道すがら、わたしが見たものは…』ジョナス・メカス監督作併映
🐝🦋
19(土)〜20(日) 🐝
21(月)〜25(金)
26(土)〜31(木)
9/1(金)
16(土) 🐝 大田和司(元維新派)
17(日) 🐝 津田直(写真家)
18(月)🐝
19(火)〜22(金)
23(土) 🐝 井上正行 菊池康弘(シネマネコ)
24(日) 🐝 🦋 菊池康弘(シネマネコ)
20日(土) 🐝 🦋
21日(日) 🐝
Synopsis
Outline of the Film Memai Vertigo
Gozo Yoshimasu (born 2/22/1939), a pioneer of Japanese contemporary poetry, pursued the vision of his ally, the late Jonas Mekas (12/24/1922 - 1/23/2019), in Manhattan and Brooklyn. The time is the end of January 2020, just before the coronavirus strikes NYC, and the trip is just in time. The film depicts the dramatic birth of a poem that could be called a requiem on the first anniversary of the death of Mekas, who was considered a giant of experimental cinema.
“Why are your poems and films so shaky?” Someone asked this question to Jonas Mekas, the poet deemed the godfather of American avant-garde cinema. Mekas replied “My life is shaky.”
This film Memai Vertigo follows Gozo Yoshimasu (b. 1939), a pioneer of modern Japanese poetry, as he seeks memories of his friend Jonas Mekas (1922-2019) through Manhattan and Brooklyn one year after Mekas’ passing. The film depicts Gozo’s process as he works to craft a poetic requiem for his friend during his stay in America.
Yoshimasu Gozo emerged on the poetry scene in the 1960s as a flagbearer for a new form of verse with a wild linguistic sensibility and an explosive image. He continues to blaze new paths, producing poetry that heightens and fills the five senses. Jonas Mekas died on January 23rd of 2019 at the age of 96. He was born on a farm in Lithuania. In his youth, his homeland was taken over by the Nazis and then the Soviets, and Mekas fled to America. From the midst of despair, he worked to plant roots in his new soil and began to weave stories from his memories through the medium of film. He created many films that influenced the development of counterculture cinema, a contrast to Hollywood. Best known of his works are the so-called “diary films” that depict his daily life.
As Gozo travels to Kyoto, Tokyo, and New York, he laments the passing of his friend, and over time these fragmentary thoughts begin to take shape as poetry. The film depicts Brooklyn and Manhattan, where Mekas lived, in ways that bring to the senses the “shakiness” he described—that of the city and its people.
When Gozo meets Mekas’s son Sebastian, he undergoes a change. The meeting takes place just before vacating Jonas’s studio in Brooklyn. Sebastian explains how his father worked and lived in the studio without a bed, often sleeping on a mat on the floor or even in a chair. In the studio, Gozo is overtaken by a moment of vertigo. He lies down and is overtaken by a flood of images which he puts into words.
This film tells the story of how Gozo draws on his experiences to compose a requiem in verse to mark the one-year anniversary of the passing of his friend Jonas Mekas, in the process preserving something of Mekas’ spirit in a work of art. The works of Mekas and Gozo are introduced along with their treasured correspondence. This film marks the birth of a new style of documentary wherein images take form as poetry.
Enjoy this film about poets of East and West who became kindred spirits, moving together in the winds of life.
COMMENT
Jonas Mekas Photo ©Yoshiki Nakano藤沢周(芥川賞作家)
メカスが初めて16ミリカメラを手にした時―。眼の前のNYに茫然として、自らを支える新しい言葉を探そうともがき、震え、立ち尽くしただろう。故国リトアニアの原風景を凌駕する街と人が、すぐそこにあるのに、それは拮抗とは違う。「私自身」の言葉、「私自身」の美しさ―それらを限界まで求め続け、現れた言葉は、沈黙。その強度の沈黙の震えと波紋の広がりを、魂の掌で受け止めたのが、日本の詩人・吉増剛造氏だ。二人の芸術家が言語の空隙で見出した風景こそが、おそらく詩であり、映画なのだ。そして、愛、ともいえる。誰もが見たことがあるのに、見たこともない世界を発見する詩人と映像作家は、まるで愛し合う者たちのようだ。その特権である眼差しと指先が、また世界を新しくする。
羽生善治(棋士)
人生を旅にたとえる人は多いですが、ジョナスメカス氏と吉増剛造氏は、実際に深く実践し多くの影響を与える作品を現代に残してきました。そんな二人が時間と空間を超えて交差する瞬間に何が生まれるか想像がつかない創造を期待させます。今までに見たこともない色彩鮮やかなタペストリーが生まれることを楽しみにしています。
芝山幹郎(映画評論家)
震える肉体と震える幻影が響き合う……だけではとどまらないのではないか。ジョナス・メカスと吉増剛造は、ともに歩幅の巨大な亡命者だ。限りなく繊細であるからこそ世界を太く渡り、不屈のサバイバルをつづけてきたふたりの魔物。そんな彼らの勇気と妖気が、冬のブルックリンで時間を超えて溶け合うと、どんな風景が現れるのか。われわれは、かつてメカスの呟いたsome kind of togethernessを目撃できるかもしれない。ひるむことなく待ち受けようではないか。
古川日出男(作家)
1990年代にNHK教育テレビジョンで、吉増剛造が「日本に」ジョナス・メカスを迎える映像を見た。いまも鮮烈に憶えているのは、下北沢でメカスを迎えた剛造さんが Welcome to my town. と最初の声を出したことだった。笑っていた。両腕を拡げていた。そして、そこは下北沢だった。吉増剛造の第二詩集『黄金詩篇』には次のようなフレーズがある。「下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字の一行だ」と、ある。ここでの読点(、)は楔だった。空間に打ち込まれた亀裂だった。その亀裂にまみれる地に、剛造さんは友人メカスを招いた。抱擁せんとする勢いで。そうなのだ、それこそが、最大の「敬愛」の示し方だったのだ。そんな亀裂オリエンテッドな二人が、いっぽうの死を越えて何を交感・交流するのか? ただただ大切なドキュメンタリーが起ちあがろうとしている。
城戸朱理(詩人)
詩人は母国語のなかにあってさえ、亡命者である。その詩人が国境を越えることを余儀なくされたとき、身体は揺らぎ、言葉も軋む。それを撮るとしたら、映像も揺らぎのなかにしかありえない。ジョナス・メカスという比類なき揺らぎと吉増剛造という稀有なる揺らぎが出会うとき、世界は新たに立ち上がる。立ちあがらざるをえない。何が起こり、そして起こりつつあるのか。震えながら「眩暈 Vertigo」の公開を待つ。
大久保賢一(映画評論家)
吉増剛造氏の映像作品シリーズ ”キセキ” で見られた強い印象を残す手法の一つが、一瞬前の画面を薄紙のような残像として残すものだった。カメラの機能は「トレイル」と呼ばれる。獣の踏み分け道。獣が境界を越える。足で、触覚で存在を探る。声が魂を召喚する。時が重ねられる。こうして映画は呪術となる。吉増氏が記憶に刻んだジョナス・メカスの言葉と身体を、魂をどのように召喚することになるのか。刮目して待つ。
小口詩子(武蔵野美術大学映像学科教授/映像作家)
前作『幻を見る人』は驚異だった。時代を生きた故の表現者たちの魂、化石や樹木、水の命声と共鳴する詩人の身体を通し、奇跡の光景を幻視した。次は、レンズ越しの異境に故郷の幻を見続けたメカスさんと生者の交信に耳を澄ますの。
佐々木美佳(映像作家・文筆家)
映画『眩暈』の撮影はジョナス・メカスの一周忌のタイミングだから、彼はもうこの世にいない。それにもかかわらず、映画の中でジョナス・メカスの存在は吉増剛造と対等であると感じた。今生きていない人の存在感と、生きている人の存在感が釣り合うというのはどういうことなのだろう。そんなことを考えながら、映画の時間に身を委ねた。第一に、メカスの残した膨大なフィルムが、彼の存在を強固にさせている。フィルムが捉えた優しい光の中で、ケラケラと歌って笑うメカス。吉増剛造に向かって「I miss you」と語りかけるメカスの声は、なぜだか私の心を揺らした。生者の時間と死者の時間が、映画と詩の魔法によって、自由自在に行き来しているみたいだった。ジョナス・メカスが楽観的でユーモアに溢れた人間だということは、映画の中で引用される彼のフィルムや言葉から、すぐに伝わってくる。リトアニアから難民としてアメリカに渡り、様々な死線をくぐり抜けてきた彼の捉える日々は、なぜだか明るい。メカスが残した息子のセバスチャンが生きた人間として我々の前にあらわれる時、二人の面影が交差する。ジョナス・メカスが蘇ったような不思議な錯覚を覚え、胸が熱くなる。
すべての子供は、神が人間に絶望していないというメッセージを携えて生まれる
Every child comes with the message that God is not yet discouraged of man.
ラビンドラナート・タゴールメカスの死を悼む旅の末に誕生する吉増剛造の詩とは何なのか。思うに、吉増剛造の身体は濾過装置のようだ。メカスとの友情、出来事、感情、風景、それらが全て吉増の体を通過することによって、詩が発生する。それを目撃しに行く旅を、映画を通じて我々も目撃するのだ。詩が生まれるに至る奇跡的な瞬間を、この映画は捉える。何が奇跡的なのかということを、この文章の中で仔細に書くことは難しいから、スクリーンで確かめて欲しい。レクイエムとして捧げる詩が生まれる瞬間のことを。奇跡の瞬間を捉えるために映画という冒険が存在することを。この映画自体が、ジョナス・メカスへのレクイエムだ。
※映画『タゴール・ソングス』(2020)監督
岡 英里奈(作家/編集者)
前作で、目に見えない水の姿を捉えた吉増氏。井上監督の強烈な映像とナマの言葉を通して、観客の目と耳が変化した。そして今作――カメラを持つ、手の震え。詩を掘る、手の震え。心の震え――目前の風景を凝視し、切り取ることで、遠い過去や〈私が死んだあと〉の声を浮かび上がらせる二人が、どう響き合うか。あたらしい世界の層がひらかれることを楽しみにしている。
ミシェル・アーサー/イタリア(フェリーニ記念映画祭審査員・脚本家)
あなたのアートドキュメンタリー「眩暈 VERTIGO」は素晴らしいプロジェクトです。狙い、タイミング、内容、そして詩的なニュアンス。すべてがプールの中に入っていて、泳いでいる気分になりました。非常に興味深い映画なのです。私の話ですが、最初の映画を撮るためにニューヨークに行ったとき、ブルックリンでジョナス・メカスが住んでいた場所を知りたいと思い散策をしたことを覚えています。それがデジャブとなって眼前に広がりました。私にとって映画とは自由であり、詩です。私が今住んでいるローマに日本人の友人がいるのと同じように日本の映画についてもっとよく知りたいと思います。グランプリ、最優秀監督賞、おめでとう!チャオ!
アルバート・ニグリン/アメリカ(ニュージャージー国際映画祭審査委員長/ラトガース大学教授)
メカスを知っている私としては、この映画は懐かしい記憶をくすぐりとても感動的なものだった。VERTIGOは偉大な実験映画への巡礼とも言える。メカスはそうした挑戦的な前衛映画のゴッドファーザーでもあり、VERTIGOはその魅力を詩的に解明し、かつそこに共に存在するという金字塔を打ち立て、時代に残る映像詩となった。敬意を込めて。
岡本零(ライター・エディター・CD)
ねこの にこげの ひかりが たまる
ブルックリン。 疲れた顔で、でも笑顔で、吉増さんを出迎えるセバスチャンがいる。ジョナスとセバスチャンが住んでいたロフトは、 インターホンからずいぶんと離れたところにエレベーターがあった。 ブザーを鳴らすといつも、 建物の反対側から出てきたジョナスかセバスチャンが、 やわらかなジャコメッティの彫刻のように立って出迎えてくれた。 立っているだけで、まわりがすこし明るくなるような、ゆらめくような。 そのようにして、ふたりはいつも僕らを出迎え、見送ってくれたのだった。 『眩暈』が映されるスクリーンを見ながら、 もういちど僕はセバスチャンに会い、ジョナスに会い、あの部屋に入った。 息子がジョナスのアコーディオンを高らかに鳴らし、 娘が生まれてはじめて猫を撫でた、あの部屋。 たくさんの本が並んでいた場所に本棚はなく、 「カンパイ!」とグラスをかかげたテーブルもなく、 ジョナスのお母さんの写真が壁にかけられた16mmフィルムの編集ブースも、 靴の釘が貼られた冷蔵庫もなかった。(ロフトはもともと靴工場だったらしく、床板のあいだから出てきた釘を、 ジョナスは嬉しそうに冷蔵庫にはっていた) セバスチャンがスープを作ってくれた鍋が、乾いて、キッチンに積み重ねられている。 吉増さんがいて、セバスチャンがいる部屋には、 でもまだ猫のパイパイがいて、 信じられないような、あたたかな光がたまっていた。 涙で、スクリーンがぼやける。そういえば吉増さんは、ジョナスの映画をみた後に、 何度も「ねこのにこげのような」と話していたのだった。 アンソロジーフィルムアーカイブスという場所はもちろん、 たくさんのフィルムと、詩と、コミュニティーといっしょに、ジョナスはこんなにもあたたかな、ひかりのたまる場所をつくった。 その場所は、いまもここにある。
編集部より
・にこげ 【和毛】 やわらかな毛
・岡本零さんは、20年以上にもわたりジョナス・メカス、セバスチャン・メカスさんと親交を深めてこられました
井戸沼紀美(上映イベント『肌蹴る光線 ーあたらしい映画ー』主催)
2014年、ジョナス・メカスさんの映画を上映させて頂いた時、ゲストとして登壇いただいた吉増剛造さんに真っ直ぐに目を見つめられ、涙がぼろぼろ溢れ出た事があった。その眼差し、声の震え方、手の皺。吉増さんやメカスさんにお会いして痛いほど感じたのは、何もごまかしがきかないということ。ハリボテのような言葉はすぐに流され、奥底の、まだ形を持たないような感情だけが見透かされている感覚。2人の本物の詩人は、その柔らかい芽を決して潰さず、そっと添え木をするように、いつだって語りかけてくれた。NYの街には、そうしてメカスさんの守った苗が、きっと数え切れないほど育っているのだ。詩の中でメカスさんのことを「震えている詩の言葉たちの茎や枝葉にいつまでも宿っている夜露の素足」と表した吉増さんは、今回の旅で、どんな風にメカスさんと再会されたのだろう。想像しただけで気が遠くなりそうなその時間を、映画を通して垣間見させていただけることが、厚かましくも、心から待ち遠しい。
加藤ひなの(武蔵野美術⼤学 造形学部 芸術⽂化学科4年)
喧騒、そして静寂があった。NY、鳴り響く救急⾞のサイレン、ネオン、⾼層ビル。地下鉄の、轟⾳と、⾝を切るような、暗く深い洞窟に吸い込まれてしまうような、空虚感。無邪気な⼦供のように笑いかけながらも、辿々しく、されど確実に、孤独を抱えている彼のしゃべりかた。沈黙し、選択され、⼝から溢れる⾔葉。怯えたように、おどけたように踊る彼を愛おしいと思った。 「きみがいなくて淋しい、会いたい。」と笑うメカス⽒がもうこの世界に存在していないこと。⽴ち尽くすことしかできない。私はメカス⽒に会ったことがないのに、ひどく寂しい。 ひとつひとつ、丁寧に、読まれていく⾔葉。リールが回る、回想、記憶がめぐる。スクリーンに映し出される、16 ミリフィルムカメラの光が、触っても⽕傷をしないやさしい炎と灰のようだった。宝物のような記憶が、そのままフィルムに出⼒されているかのようで。記憶の断⽚として、フィルムとして、映画として、詩として、鈍くあたたかい光を放っていた。 映画を観ていて、気がついたら、涙が出ていた。感動の涙なのか、私にはまだ⾔葉にできないが、⼼の根っこのような、どこかが震えているのだと思う。 メカス⽒のような、繊細で鋭い視点を持つ⼈が存在していたこと、そしてその友⼈である吉増剛造⽒が、彼を悼み、慈しみをもって、想い続けていること。⾔語という壁の境界線を超えて、⼼の根っこの所にある、世界を⾒つめる視点、世の中の解像度が近しい⼈物がこの世界にいること。必要最低限の⾔葉で、限りなく⼼の底からの対話が成り⽴つ⼈と出会えるということ。それはもう、紛れもない奇跡のようなものだ。奇跡でなかったら、なんなのだろうか。 感情が震えている余⽩の映像を、その瞬間を、意味のある沈黙を、作品として撮影して下さった井上春⽣監督がいらっしゃること。今、映画として、詩として、ドキュメンタリーとして、この作品に出会えたことを誇りに思います。
井上国太郎(東京大学 文学部宗教学宗教史学専修3年)
僕は、ずぶ濡れになったまま、立ちすくんでいる。はじめに聞こえてきたのは、心臓の音だった。旧式のタイプライター。それはメカスの心臓である。キーがやけに分厚い活版印刷の亜種が実用的に使われているところを、2000 年生まれの僕は見たことがない。しかし、それは確かに生きていた。言葉を探り続ける詩人の一部として。その鼓動が、メカスの残した言葉と共に流れ出す。カタカタカタとタイプライターを打つ音は、通り雨が地面を打つ音にも聞こえてくる。もともと、雨は嫌いではない。僕は試写室の上等なソファに深々と腰掛け、じっと、降り注ぐ言葉たちーー詩人の呟きに耳を澄ませた。一言残らず、すべて受け止めるつもりだった。しかし、それは並大抵のことではなかった。徐々に雨脚が強まる。詩人は膨大な量の言葉を残した。その言葉たちは、もう一人の詩人、吉増剛造の体の中にも流れ込み、吉増がこれまで読んできた言葉、交差した人たちとの経験と結びつき、新たな言葉となって溢れ出す。今度はレシートの裏側に点々と記された、小さな足跡となって。あの小さな足跡をそのまま声に出すと、吉増の訥々とした独白になるのだと思う。特定の誰かに向けられたわけではない声。それでいて、いや、やっぱりこの声は自分に向けられているのだと確信せずにはいられない声。雨が降れば、大抵の人間は傘をさす。身を守るために。この映画を観るのは、傘を捨てて言葉の雨に打たれるようなものだ。東京の下町を支える隅田川、京都の湖、あるいは吉増が石巻から眺めた太平洋、メカスの住んでいた紐育。僕を打ち付けるこの雨がどこからやってきたのか、それは分からない。水が時代や国境線を無視して地球上を循環するように、数多の詩人の肉体を通し、言葉はこだまする。そして今、たまたま、僕の目の前に大雨となって降り出した。もう、カタカタなんて生やさしい擬音語はふさわしくない。紐育の喧騒のように、地響きのように、ゴオゴオと降り注ぐ雨。聴覚をシャットダウンさせるような轟音。とっくに体はびしょ濡れになっていて、前を見ることもできない。重量を凝縮させた雨粒が、僕の肌を暴力的に鞭打つ。眩暈がする。心臓が、僕の体を内側から強く叩く。やっと、雨が上がったようだ。清々しいほど⻘い空を眺めながら、ふと考えた。あんなに優しくて、ためらいがちに話していた詩人たちの、どこにこんなエネルギーが眠っていたのだろう。居合わせたものを茫然とさせてしまう、峻烈な言葉の雨。あんな大雨の中にずっといたら、人が変わってしまうに違いない。恐ろしいことだ。それでいて、もう一度傘を捨てて飛び込もうとしている自分がいる。もっと、恐ろしいことだ。
井潟瑞希(東京大学 教養学部教養学科3年)
恥ずかしながらジョナス・メカスの作品を一度も観たことがなく、吉増剛造氏の大ファンというわけでもないのに、特設サイトを覗いた時、なぜかこの映画を観たいと思いました。説明書きから、ひとりの人間が旅に出て、ひとりの人間を追悼する映画らしい、ということが分かったからかもしれません。亡くなった人が食べて寝て起きて、の繰り返しを過ごした生活の場に足を踏み入れるとは、とてつもない旅ではないか、と思ったのです。懐かしんだり思い出を語ったり、という温かくて安全な旅にはとどまり得ず、遂にかたちにされなかった経験が永遠に失われたと分かること、その人がおくびにも出さなかった何かを発見した瞬間、もう後戻りはできないこと、そんな危うさが伴う旅になるのではないか、と想像しました。そのような危うさのなかで詩人である吉増氏は、メカスをどのように悼むのだろう。井上春生監督は、そんな危うい旅を、どのように一編の映像にまとめるのだろう。それが知りたくて、試写会に足を運びました。血が通い、一秒一秒呼吸を繰り返す自らの身体でもって、跡形もなく輪郭が消えてしまった身体を辿る吉増氏。メカスの愛したリールの回転音に、彼がしたようにそっと、耳を澄ませる。コニーアイランドの海風に、彼がしたようにそっと、身を流していく。スクリーンに映し出されるそうした姿をただただ受動的に眺めるなかでふっと、ある考えが形をとりました。最も原始的でそれでいて究極的な追悼のありかたは、模倣することだったのではないか。だとしたら、そんな模倣のなかでも、最も原始的で究極的なありかたが、眩暈することだったのではないか。廃墟のように荒廃したヨーロッパから難民として船に乗ったメカスが、初めて目にした摩天楼。地下鉄のホームで、覚えたばかりのステップを夢中になって踏んでいる二人の少女。それらに晒されたメカスの身体に、震えは積もりに積もっていった。震えの束を乗せて運んでいた身体はある日、音もなく消えた。それでも、かつてこの空間に確かにあった身体に、もう一つの身体を沿わせたとき、積もりに積もった震えを一身に模倣して、眩暈した。束になった震えをつい模倣してしまう、そんな幸運な身体を持ち合わせている人は、きっとそれほど多くない。そして吉増氏はその僅かな一人だった。あるいは、ただ一人だったのかもしれない。食べて寝て起きての繰り返しの生活に潜んでいる、一度きりの震えを捉える眼、そんな日記を書く眼に根差した表現者同士ゆえに、起きたことなのだろう。その眼が掴んだことを、なかったことにしたくないし、できない人たちが、どうしようもなく日記を書き続けている。なかったことにしてもいいし、なかったことにできる人たちは日記を書くのをいつの間にかやめてしまう。Oh, Mademoiselle Kinka! かつてメカスを震わせた摩天楼の隙間から覗く空を見上げた吉増氏が呟いた、その体の奥底にある金華山の微かな道を踏みしめていった先でゆっくりこちらを振り向いたひまわり色の女。そこで場面は切り替わり、あれは幻だったんじゃないか、いやでも確かにあそこであれを見たんだよなあ、そう首を傾げてしまうような断片がたくさん、一度観ただけではまだ分からないことだらけの映画です。でも劇場で観るかたは、一度だけそっと、眼を閉じてみてください。瞼の裏のちらつき、その光りの揺れは柔らかくて、それでいてもう安全ではいられない。メカスの眼の震えの一端を掴んでしまってもう後戻りはできない、一方通行の旅でした。